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みにくいアヒルのコタリピテ

 見ていないものを正しく評価することはできない。


 誰も見たことのない美しい景色というものは、存在しません。誰も見たことがないのなら、誰もその景色について述べることはできないからです。逆に言えば、評価できたものは、その対象を認識できたからなんです。正確には「逆」ではなくて「対偶」ですけど。この論理(論理と呼べるような大したものではないけれど)に従えば、「人は見た目が10割」な気がしてきたんですよね。それはまずい、そんなの許せない、いや、可愛かったら許すかも、ああそれこそ見た目で判断してるじゃないか、なんていう感じで一人悶々としながら、このことについて少し考えてみました。

 一般に言う「見た目」とは、容姿・外見のことを指しているようですが、その「見た目」の良し悪しの基準とは何なのでしょうか? 絶対的な良さや悪さは無いと思えるので、まずは必要条件から考えてみることにします。人を人として判断するには、「人間らしいこと」が必要です。では、人間らしいとは?
 例えば、私があなたに物体xを見せて、「これは『コタリピテ』というものです」と言ったとします。「コタリピテ」が何であるか予め知っていた人はいないはずです。今思いついた言葉ですし、そもそも私にも何だか分かりません。この「コタリピテ」を初めて知ったとき、あなたにとって「コタリピテらしさ」とは、xそのもののはずです。今度は物体yを見せ、「これも『コタリピテ』です」と言ったとします。するとどうですか? 「コタリピテらしさ」とは「xとyの共通項」と考えられませんか? これを繰り返せば、「コタリピテらしさ」が次第にはっきりとしてくるはずです。「人間らしさ」も同様に考えて、ここでは「人間らしいこと」を「帰納的に得られた典型的人間、すなわち、人間のプロトタイプに近いこと」として考えることにします。
 帰納とくれば、演繹です。その「プロトタイプ」を基準に、対象を評価します。人のプロトタイプに最も近い人が「理想の人」なのかもしれません。しかし、プロトタイプは人によって違いますし、自分自身でも時によって異なります。同じ人を何度も見れば、プロトタイプはその人寄りに変化するでしょうし、よく言われる「ブスは三日で慣れる」を実際に経験した人もいるんじゃないでしょうか。この現象を「『地域名』病」と呼ぶ所もあるそうです。ただ、「慣れる」と言っても「それが平常だと感じるようになる」というだけですので、残念ながら、決して美人と序列が入れ替わることはありません。美人は、三日目にしてその美しさを再確認されるのかもしれませんし。

「見た目と性格、どっちが大事?」という究極の選択的などうしようもなさを持った質問から分かるように、「性格」は、しばしば見た目の対立項として挙げられます。見た目と性格についての優劣は、野球の試合に喩えられることもよくあり、「見た目は地方予選であり、性格は甲子園である」と言われますが、それは、「中身こそが最も重要である」ということを伝えたいのではなくて、「見た目が悪ければ予選すら突破できない」ということを伝えるための喩えだそうです。ここで、「性格が良い」とはどういうことなのか考えてみることにします。例えば、優しいとか、思いやりがあるとか……。そういった思考回路を持つ人のことでしょうか。しかし、脳内ではどうだとか、心の中ではどうだとかいったことは判断できません。見えませんから。評価している以上、どこかに何らかの形で現れるはずです。ですから「性格」とは、発言や行動が認知されて初めて発現すると言ってもいいのかもしれません。そして、言葉や態度で表されるものを「見た目」と呼ぶのであれば、人は「見た目」で十分に判断できるのでしょう。
 性格とは、日々の意識の積み重ねによって形成されるのではないでしょうか。几帳面だとか冷静だとか陽気だとか正直だとか、そういうものは選択の結果であるように思えます。例えば毎回の会話で、正直でいるか嘘をつくかは自由ですから、常に正しくあれば正直者なのだろうし、嘘をついてしまえば、それが一回であっても嘘つきだと言われてしまうかもしれません。だから正直者でい続けることは難しいです。行動を自由に選べるという意味で、性格は可変性のあるものだと言えると思います。変えるには時間がかかるかもしれませんが。
 自分にとって都合のいい人を「性格が良い人」と言うのかとか、逆はどうなのかとか、犯罪者は「性格が悪い」のかとか、よく分からない所も多くて、「性格」は、私にはまだまだ難題のようです。

 見たいように見てはいけないし、余分に足したり無駄に引いたりしてもいけません。振る舞いを投影して外見を判断しがちですが、外見と内実は本来独立した別個のものであるということを忘れてはいけません。そうしたバイアスが、あるべき姿をミニクくしているのかもしれません。
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